Kansai Cricket Association

“ドリー “の生涯

サッカーや他のスポーツの選手と比べてクリケット選手はより愛着がわきやすいと言うファンは多い。試合時間が長いからだろうか。5日間に渡って永遠と続くテストマッチを観ていると一つ一つのプレイの中から選手の内面が伝わってくる気がする。

イングランドとオーストラリアが1877年に初めてのテストマッチを戦って以来、2000人以上の選手がテストクリケットという最高の舞台でプレイしてきた。それぞれの選手にそれぞれのストーリーがある。インドの経済自由化と時を同じくして17歳の若さでデビューし、その後23年間に渡って国民の期待を一身に背負い続けたSachin Tendulkarもいれば、恵まれた環境に生まれ、南アフリカ代表のキャプテンとしてアパルトヘイト撤廃後の新しい「虹の国」の象徴でありながら、欲に目がくらみ八百長に手を染めたHansie Cronjeもいる。元イングランド代表キャプテンで、現在はロンドンタイムズのクリケットライターを務めるMike Athertonによれば、プロスポーツは究極のポリグラフ検査らしい。プレッシャーに常にさらされる環境の中で、必ず本性が見えてくるからだ。

クリケットの長い歴史の中で、親しい友人やチームメートから “ドリー “の愛称で親しまれたBasil D’Oliveiraの人生ほど、心揺さぶられるストーリーはおそらくないだろう。2011年にイングランド中部ウスターで亡くなったBasilはその勝負強いバッティングだけでなく、1969年の夏に下したある決断のために、今でも多くの人々の尊敬を集めている。

Basilは1931年に南アフリカのケープタウンで生まれた。ポルトガルからの入植者とアフリカ先住民の血を引く家庭に生まれ、幼いころから様々なスポーツで才能を発揮する。中でもクリケットの才能は素晴らしく、父と同じ St Augustine’sというクラブでプレイし、南アフリカ代表としてテストマッチに出場することを夢見ながら幼年時代を過ごす。しかし、1948年に全てが一変する。アパルトヘイトが法制化され、白人として分類されないBasilは国内トップリーグでプレイする機会だけでなく、整備された芝のグラウンドを使う機会も奪われることになる。世界で最も美しいクリケット場の一つと言われるケープタウンのニューランズスタジアムでバッティングをする機会はBasilに生涯訪れることはなかった。

印刷会社で働きながら、St Augustine’sのキャプテンとしてクリケットを続けるBasilだったが、チームメイトや家族の勧めもあり、イングランドに渡ることを決意する。イングランドで無名であったBasilであったが、ジャーナリストで当時BBCのクリケット中継で解説を務めていたJohn Arlottの協力もあり、プロ契約を手にすることができた。Basilやチームメイトからの手紙に心を動かされたArlottは以降もBasilを友人として支えることになる。
イングランド北部ランカシャーの独立リーグに所属するMiddletonから届いたオファーはケープタウンからの旅費にも満たない額であったが、チームメイト達がお金を出し合いBasilを送り出した。

慣れないイングランドのコンディションにシーズン当初こそ苦しむものの、Basilは次第に結果を残していく。バッティングとボウリングどちらもこなすオールラウンダーとしてチームの中心選手となり、やがてイングランドのトップクラブの注目を集めるようになる。Middletonで4年プレイした後、1964年にイングランドに17(現在は18)あるトップクラブの一つであるWorcestershireへの移籍が決まる。チームのピンチにイニングを建て直すBasilの勝負強さはこのレベルでも変わることはなかった。同年にイギリス国籍を取得したBasilに2年後、ついにイングランド代表からの招集状が届く。35歳にして、テストマッチに出場するというBasilの夢がかなった瞬間だった。
代表でも結果を残し、チームに定着したBasilだったが、1969年の冬に予定されている南アフリカ遠征が近づくにつれ次第に調子を落とす。後のインタビューでBasilはSt Augustine’s時代のチームメイトの前でプレイするために、イングランド代表で結果を出し続けなければならないというプレッシャーに耐え切れなかったと明かしている。低調なパフォーマンスが続いたBasilは一度代表からの落選を経験するが、Worcestershireで結果を残し続け、1969年ホームシーズン最終戦で代表に呼び戻される。ここでオーストラリア代表相手に結果を残せば、冬の南アフリカ遠征に選ばれる可能性が見えてくる。逆に結果を残せるチャンスはこの試合しかない。
このプレッシャーのかかる試合でBasilは持ち前の勝負強さを発揮する。バッティングでは158ランを挙げ、ボウリングでも正確な投球でイングランドの勝利に大きく貢献する。念願の南アフリカ遠征が見えてきた。

オーストラリア戦の少し前、Basilの前にあるタバコ会社の重役を名乗る男が現れる。Basilのファンという彼は、オフシーズン中に南アフリカでのコーチングの話を持ち掛ける。報酬は当時のトップ戦選手が受け取る年俸の約4倍であった。引き換え条件はBasilが南アフリカ遠征を辞退することだった。それは南アフリカ政府からの非公式の賄賂の提案であった。人種隔離政策を進める政府にとって、白人以外の選手を含むチームの遠征は受け入れがたい事態だったのである。
当時代表を外れていたBasilにとって、魅力的なオファーだったに違いない。しかし、Basilはオファーを断る。ケープタウンに残してきた友人たちの境遇を考えれば難しくない決断だったと後に自伝で明かしている。
Basilはオーストラリア戦の翌日発表された南アフリカ遠征のメンバーからは漏れたものの、他選手の怪我を受け追加招集が決まる。南アフリカ政府はイングランドチームを反アパルトヘイト勢力であるとみなし、チームの受け入れ拒否をすぐに発表する。遠征は無期限で延期され、他のスポーツではすでに行われていたスポーツボイコットがクリケットでも始まることになる。南アフリカが次に国際試合を行うのは22年後の1991年だ。マンデラが釈放され、アパルトヘイトの撤廃が決まった年である。

もしBasilが賄賂を受け取っていればどうなっていただろうか。遠征は批判を受けながらも行われただろう。スポーツボイコットがアパルトヘイト撤廃に果たした役割を考えればBasilの決断は歴史的決断だったと言えるかもしれない。

2003年に南アフリカで開催されたクリケットワールドカップの開会式に招待されたBasilは数十年ぶりにケープタウンに戻る。開会式のパレードで現役時代に踏むことを許されなかかったニューランズスタジアムの芝の上を歩くBasilを見てかつてのSt Augustine’sのチームメイトは涙を流したという。
今年は4年ぶりに南アフリカがイングランドに遠征を行う年だ。2004年以降2国間のトロフィーは “ドリー “に敬意を表して、Basil D’Oliveira Trophyと呼ばれている。

関連資料
①Basil D’oliveira: Cricket and Controversy by Peter Oborne (2004) Sphere
英ジャーナリストPeter OborneによるBasilの伝記。アパルトヘイト後に公開された南アフリカ政府資料に関する記述が興味深い。「賄賂」について詳細に触れられている。

②Cronje and D’Oliveira: same country different planet (2008)
Mike Athertonによるロンドンタイムズのコラム。2008年夏に行われた南アフリカ代表のイングランド遠征直前に書かれた。Athertonはこの年からタイムズのチーフクリケットライターを務めている。

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